「接吻」




斉藤が頻繁に時尾の店を訪れ始めてから、数週間が経っていた。
しかしそれはいつも昼時で、こうして夕方に尋ねるのは初めてのことだった。

「一はん?」

もう店仕舞いを始めていた時尾が、斉藤の訪問に驚いた顔をする。

「あの、すいまへんけど、もうお店…。」
「ああ。そのようだな。」

特別残念がる様子も、気を悪くする様子も無く、当然のことのように言う斉藤に
時尾は困ったように首を傾げた。
しかし斉藤は、何か考え込んでいるようで動かない。
時尾も気まずい雰囲気のまま、斉藤が動くのを待つ状態で固まってしまった。
不思議な沈黙の時間が流れる。

「…あの。」

おずおずと声を出す時尾。
唐突に、それまで俯き加減だった斉藤が顔を上げた。
瞳が真っ直ぐに時尾を見つめる。
そしてその時、けして迷うことなど無いようなその男の瞳が、不安げに揺れるのを時尾は見た。

「一はん?」
「いや。何でもない。邪魔したな。」

そう答える斉藤の声は、確かに何でもないいつもの声。何でもない顔。何でもない瞳。
それは先程の不安げな瞳など気のせいに過ぎないと、時尾に思わせるには十分過ぎる態度だった。
そのまま店を出て去っていく斉藤の背中を、時尾は不思議に思いながらも自然と見送った。


「チッ。」

斉藤は、時尾の店が見えない場所まで歩いてから、不快気に舌打ちをする。
他ならぬ自分に対して、斉藤は苛立っていた。
その日の昼間、斉藤は人を斬った。いつもように。
別に数えていたわけではないが、三人か、せいぜい四人。
大した数ではない。大したことではない。
いつものこと。何でもないこと。
今更、罪悪感など感じるはずも無く、恐れや悲しみを感じることもない。
それなのに何故か、斉藤は不安だった。ただ、ただ不安だった。
そしてその不安の原因が知れないことに、苛立っていた。
人を斬ることに対する罪悪感でも、恐れでも悲しみでもないとしたら、
この不安の正体は一体何だというのだろう?
ただ、血に濡れた身体で、血に濡れた刀を手に、ただ、時尾に会いたいと思った。
そして思うままに会いに行った。
やはり、その理由はわからない。自分が、わからない。
その時、カタカタと背後から駆けてくる足音。
斉藤の脳裏に、時尾と初めて会った夜が思い出される。
振り向くと、斉藤を追いかけて走って来る時尾の姿が目に映った。
あの夜もこんな風に追いかけて来ていたのだろうか、と、斉藤はぼんやり思う。

「一はん…ッ。」

走った所為で、その声は掠れていた。
それが何故か色っぽく聞こえる。

「何だ?」
「あの、よかったら、お茶、飲んでいかれまへん?」

息を整えながら笑いかける時尾に、つい先程まで苛立っていたはずの斉藤の顔に笑みが浮かぶ。

「そうだな。」

斉藤の返事に、時尾は改めて満面で笑った。


二人並んで、店に戻った。
時尾は、言葉通りお茶を淹れ斉藤に差し出した。

「どうぞ。」
「ああ。」

そういえば以前、この店に住み込みで働いているのだと聞いた覚えがある。
と、斉藤は昼食を食べにきたときに時尾と交わした会話を思い出す。

「何かあったんどすか?」
「いや。何でもない。」

時尾の問いに、斉藤は先程と同じ言葉を同じ口調で返す。

「何でもないんやったら、何でこないな時間に来はったの?」

何でもないはずがない。きっとあの不安の色は見間違いではない。
と、そんな思いをその強い瞳に込めて時尾はじっと斉藤を見つめる。
質問には答えず、斉藤は自分を真っ直ぐに見つめてくる瞳をただ見返す。
そして、その瞳に吸い込まれるように、引き寄せられるように、そっとくちづけた。
時尾が慌てて斉藤から離れる。
そして口元を押さえたまま、真っ赤になって俯いた。
それを見て、斉藤はようやく答えを見つけた。

「お前に、惚れたからだ。」

サラリと言ってのけた斉藤に、時尾は顔を上げ、更にそれを朱に染める。
魅せられていたのだ。その、真っ直ぐな瞳に初めて出会った時。
そして、死ぬのが怖くなった。
どうしてもこの手に入れたいと思った。
単純過ぎて気付かなかった、ぞれが不安の正体。
斉藤は、時尾の淹れたお茶を飲み干すと、立ち上がる。

「邪魔したな。」

そして先程と同じ言葉を、先程よりも少し優しい口調で残して去って行った。
時尾は、真っ赤な顔で固まったまま、それを見送った。



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【作者コメント:桃子】
早く再会後の話が書きたくて、過去編が猛スピードで展開しております。
だんだん時尾のキャラクターがわからなくなってきました。
斉藤は初めからよくわかってません。