「愛欲」






時尾の唇を奪った夜の翌日、斉藤は何事も無かったかのように彼女の店を訪ねた

斉藤の姿に、時尾は驚いた顔をする。
心の準備が出来ていない、とでも言いたげだ。
そしてそそくさと注文を取ると、一度も目を合わせないまま下がってしまった。
普段なら、煩い位に一方的に話しかけてくるのに。
しかしまあ、当然の反応だろう、と斉藤は思う。
どうしたものかと考えるが、名案も浮かばない。
斉藤は、話しかけるべき言葉を持ち合わせていなかった。
自分はこんなに不器用な男だっただろうか、と、それでもまだ冷静な頭で考えた

本当は、自分がどうしたいのかわからないのだ。
彼女を手に入れたいのだと思う。
けれど、そんなことが許されるのだろうか?
このまま全て忘れてしまえば、苦しむことも、苦しめることも無いまま、
きっといつか何処かで、斬られて死ねる。
そうすべきである気がしたのだ。自分に人を愛することなど、出来ない気がしたのだ。
きっといつか何処かで、斬られて死ぬ命なのだから。
斉藤はむっつりと黙りこくったまま、蕎麦を食べ終え席を立つ。
味などわからなかった。

「一はん。また、いらしてください。」
「ああ。」

明るいけれどどこか無理のある時尾の声に、斉藤は背を向けたまま答える。
しかし、予想外の言葉に、驚いて振り返った。

「お店、閉めた後でもかまいまへんから。」

時尾は俯いたまま、斉藤の顔を見ようとはしない。
そんな姿に、思わず笑みが漏れた。

「ああ。」

魅せられたのは、いつでも真っ直ぐなその瞳。
そんな瞳を、自分が俯かせている。
それは、思っていたよりもずっと気分が良かった。

その夜、さっそく時尾の許を訪ねた斉藤に、時尾は驚いた顔をする。
心の準備が出来ていない、とでも言いたげだ。

「また、後日出直して来ようか。」

本当のことを言うと、斉藤も心の準備が十分に整っていたわけではなかった。
時尾が今日は帰ってくれと言うのなら、それはそれでかまわなかった。

「いいえ、今お茶を。」

しかし時尾は、斉藤に考え直す時間を与えることはしなかった。
昨夜と同じ動作で、斉藤にお茶を差し出す。

「どうぞ。」
「ああ。」

時尾は、もう覚悟を決めた様子で、いつものあの強い瞳で真っ直ぐに斉藤を見つ
める。
この瞳はいけない、と、斉藤は思った。
どんな痴態よりも誘われる。
抗えないものに吸い込まれるように、斉藤は時尾を引き寄せくちづける。 その膝の上に倒れてくる身体を、斉藤が抱きとめる。
昨夜の不安がまだ斉藤の中で燻っていたが、斉藤は気付かない振りをした。
もう、引き返せない。
せっかく手に入ったものを、そんな理由で手放すほど馬鹿じゃない。

「…ッん。」

時尾が艶っぽい息を吐く。
首元から差し入れた斉藤の腕を、時尾はその動きを邪魔しない程度に、それでも
強く、掴んでいた。


「ねえ、一はんって、何してる方なん?」

乱れた姿のままで、斉藤の胸に顔を埋めた時尾が聞いた。
斉藤は、一瞬言葉に詰まる。
そういえば、彼女は斉藤のことなど何も知らない。今まで、何も聞かなかった。
こんな関係になったのだから、聞く権利が出来たとでも言いたいのだろうか?
しかし斉藤は、自身のことを語る気になれなかった。
勇気が無かった、と言ったほうが近いのかもしれない。

「言いたくないんやったら、別にかまいまへんけど。」

時尾は、斉藤の葛藤など知らずに平然と言った。
そして、先程まで自らの身体を嬲っていた斉藤の指先をそっと撫でる。
それは悲し気に。
けれど斉藤は、そんな様子になど気付かない振りをした。

「爪の間に、血が溜まってはる。」

時尾の言葉に、斉藤は驚いて自分の指先を見つめる。
彼女の言う通り、爪の間に黒ずんだ血がこびりついていた。
慌てた様子の斉藤を、時尾が笑う。

「ウチは、一はんがどんなお方でもかまいまへんのよ。」

そう言う時尾に、斉藤は確かに甘えていた。
けれど、そんな自分に気付かない振りをしていた。



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【作者コメント:桃子】
やっちゃった。(いろんな意味で)