「別離」
斉藤は時尾を抱きしめて、もうずいぶん長いこと黙ったままだ。
時尾はそんないつもとは違う斉藤の様子に戸惑いながらも、大人しく抱かれていた。
部屋の片隅、斉藤の熱い腕の中。
何処よりも安全なはずの場所で、時尾は恐ろしく不安になる。
逞しい腕が、まるで子供のそれのように頼りなく思えた。
「一はん…?」
耐え切れず、時尾は声を出した。
闇のような静寂に、不安の一因があるのは確かだった。
「今日、どうしたん?ずっと黙って…。」
斉藤の腕の力が増した。
抱きしめられているというよりも、まるで縋られているみたいだ。
「せっかく、久しぶりに会えたんよ?」
最近はずっと、斉藤が忙しくて会うことができなかった。
本当に久しぶりに斉藤が尋ねて来てくれて、抱きしめてくれて、それなのに。
「一はん。…何がそんなに怖いん?」
時尾の言葉に、斉藤の腕の力が緩んだ。
瞬間、時尾はスルリとその腕から逃げ出した。
「怖い?」
斉藤が、驚いた声を出す。
時尾は強く、そしてとても優しい瞳で斉藤を見つめる。
「違いました?」
真っ直ぐに、見つめる。
「突然何を言い出すかと思えば…。」
斉藤が、時尾から目を逸らし立ち上がる。
「一はん…?」
向けられた冷たい背中を、時尾は縋る目で見つめる。
恐ろしくて、肩が震えていた。
「もう、ここには来ない。」
斉藤の背中が、低い声で呟いた。
「…え?」
「もう、お前とは逢わない。」
「突然、何を言い出しますの。」
恐ろしくて、声が震えていた。
「何、拗ねてしもうたん?気悪くしたんやったら謝ります…。やから…、」
「俺のことは、忘れろ。」
背を向けたまま去ろうとする斉藤の着物を、時尾は必死に引き寄せる。
「そんなんで、納得出来るわけ無いやないの…。目も合わさん、顔も見せん言葉で、納得出来るわけ…ッ。」
それでも斉藤は、時尾を振り返ることをしなかった。
時尾の手を振り払おうとする斉藤に、時尾は必死で縋りつく。
「せめて、理由くらい…。」
「……爪の間の血が、」
斉藤が、言いかけた言葉を飲み込む。
「何?」
時尾は、そっと斉藤の手を取る。血の溜まった爪を見る。
それを両手で、優しく包む。
「ウチは、一はんが何してても…、どんなお人でも、…好きやのに?」
時尾はそっと、斉藤の人差し指を口に入れた。
斉藤はやはり時尾に背を向けたままだったが、もう無理矢理に振り払おうとはせず好きにさせていた。
時尾は舌先で斉藤の爪の間を強く撫でる。斉藤の罪を舐め取ろうと、必死に。
「ほら、綺麗になった。」
時尾は唇を離し、唾液で濡れた指を愛おしそうに袖で拭う。
「汚れている。」
「全部、ウチが舐め取ってあげる。」
「落ちない汚れもあるさ。」
「でも汚れてても、ウチは、汚れてても好きやのにッ!」
振り向かない背中を、時尾は真っ直ぐに見つめる。
今にも泣き出しそうな瞳で。けれどけして泣かない瞳で。
「俺のことは忘れろ。」
「一はんッ!」
時尾の手を振りほどき、振り返らないまま去ろうとする斉藤に、時尾の声はまだ縋り付く。
「一はんの罪、ウチにも分けて?半分、ウチにも背負わして?そしたら、少しは軽くなるやろ?そしたら…ッ。」
斉藤は振り返り、時尾を真っ直ぐに見つめる。
「なおさらもう、お前には会えないな。」
お前に罪を背負わせることになるのなら、もう会えない。
それは強く、優しい瞳だった。
時尾は、目を逸らすことが出来なかった。
斉藤は、振り返ってしまわないよう、じっと前を見て歩いた。
キュッと拳を握る。
両手の罪を隠すように。斬った男の血を隠すように。
それは、仲間だった男の血だった。そして、彼の女の血。
逃げていた二人を追い詰め、切り捨てた。
後悔しているわけではない。間違っていたとは思っていない。
ただ、爪の間の血が、時尾を汚してしまいそうだった。
間違っているとは思っていない。けれど、何の罪も無いと言うつもりもない。
それは、とてもこの命ひとつで償いきれる罪ではない。
しょせん、いずれ何処かで切られて死ぬ命。
そんな命に、時尾を巻き込みたくは無い。
斉藤は振り返った。これが、最後の1回。
カタカタと響く足音は追ってこない。
これで良いと思った。
これで良いと、言い聞かせた。
時尾は、斉藤の背中を追えないまま座り込んでいた。
今までのように、追いかけなくてはと思った。
何度もそうしてきたように。斉藤を離さないように。
魅せられたのは、あの瞳。
あの強く真っ直ぐな瞳に見つめられると、動けなくなる。目を逸らして、俯いてしまう。
だからいつも、斉藤の背中ばかり追いかけた。
斉藤が去りかけてやっと、時尾は追うことが出来た。
なのに今回は追えない。あの瞳は追えない。
目を逸らせなかった。
けれど、受け止めることも出来なかった。
気付かないフリをすることも、気付いていると言うことも、時尾には出来なかった。
斉藤に、愛されていると。
きっとここは浅瀬なのだ。少し流れが早過ぎただけ。
でもきっとまた逢える。
きっと、逢える。
瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ
◇ 作品ページに戻る ◇ 次のお話へ行く ◇
【作者コメント:桃子】
難産でした…疲。伏線の張り過ぎだ。
まだ残ってるんだけどね。全部回収する自信なくなってきたよ。うん。頑張る。
とりあえず過去編終了ーっす。